福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第11章
福屋兼香【6代本明城主】
から
福屋正兼【11代本明城主】
まで《石見》



中臣氏⇒藤原氏⇒御神本氏⇒益田氏⇒福屋氏 〜石見国〜

第10章では、初代本明城主・福屋兼広から5代城主・景兼まで説明した。この第11章では、6代から11代本明城主に焦点を当てた。

系図G

※1 ※2 ※3 ※4 ※5 ※6 ※7 [第10章の系図Fから続く] → 兼香 → 兼光 → 氏兼 → 清兼 → 国兼 → 正兼 → 隆兼 →[第13章の系図Hに続く]
[文献表1番・2番18-23頁・12番5173頁・14番]



※1 福屋兼香(6代本明城主)
弟に兼宗(因幡守)がいた [文献表2番20-21頁]。 兼宗は市木氏祖となった[文献表14番]。

興国こうこく2年〈1341〉8月、吉川経実の軍に攻められ、加古屋城をはじめ、乙明城・太石谷城ともに、落城させられた。しかし、正平しょうへい6年〈1351〉に高師直・師泰の死後に、再び福屋氏が復帰した。さらに、正平21年には大内弘世や益田兼見かねみの軍と対戦して敗北。」(私が西暦とルビを付け加え。)[文献表11番876頁]

※2 福屋兼光(7代本明城主)
太郎。福光村久根城主。『石見雑記』に「久根平城」の記事がみえる [文献表11番574頁]。

※3 福屋氏兼(8代本明城主)

応永おうえい12〈1405〉年に、五武将(福屋氏兼、吉見頼弘、益田兼家・三隅氏世・周布兼宗)は一揆契状という盟約を結んだ(詳細は「石見吉見氏中興の祖吉見頼弘」 [文献表83番]。)

『藝藩通志、山縣郡條』によると、「古壘、大利原、草安、南門原、三村に跨る。應永中、岩見の福屋木工丞もっこうじょう・發坂城を攻むる時、築くと云う。」 [文献表12番5174頁]

応永おうえい年中=1394-1427年

1421年に、福屋氏は雄鹿原合戦を始めた (現在の広島県芸北町雄鹿原)。この8年間続いた戦いは、安芸の国、太田・奥山庄の地頭・栗栖氏の領地を争奪する為であった。奥山庄の農民は、年貢取立てに栗栖氏より寛容な福屋氏を支援した。その結果、福屋氏は領地を争奪した [文献表26番]
乙九日おとくんち炎の祭典を参照)。


※4 福屋清兼(9代本明城主)

小笠原系図に「十一代長定の二女福屋室」とある
[文献表12番5174頁]。





※5 福屋国兼(10代本明城主)
太郎左衛門ともいう [文献表2番22頁]。 彼の弟・忠郷が高野氏の祖となった [文献表14番]。
永正えいしょう4年〈1507年〉、大内義興よしおきは足利義植よしたね〈1466-1523〉を奉じ上洛した。国兼もこれに参戦した。永正5年(1508年)に、義植は再び(室町幕府10代)将軍になった [文献表2番22頁・69番99頁・78番]。

※6 福屋正兼(或は、慶兼、11代本明城主)

大永たいえい2年〈1522〉、尼子経久が本明城を攻める [文献表61番189頁]。福屋氏一党は本明城を逃れ細腰城に立て籠もった [文献表98番]。

福屋正兼は三隅兼隆と永年抗争を続けていた。この抗争は大内義興の命、益田尹兼の仲裁により、大永たいえい4年〈1524〉に一時期治まった [文献表65番]。

天文てんぶん11年〈1542〉に、大内義隆が尼子晴久の月山富田城がっさんとだじょうを攻めた。福屋正兼は大内氏に味方した [文献表9番・57番43-46頁] (第12章の図12-1を参照)。

※7 福屋隆兼(詳細は12章を参照。)






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初版公開:2009年6月9日
http://fukuya.ddo.jp/fukuya-clan/chapters/cha11.html