第12章
福屋隆兼【12代本明城主】《石見》
第10章と11章では初代本明城主から11代本明城主までふれました。この章では12代本明城主福屋隆兼の軌跡を追います。まず最初に、隆兼の生きた時代の歴史的背景として中国地方の合戦を扱います。
歴史的背景
図12-1が示すように、中国地方では大内氏・尼子氏・陶氏・小早川氏・吉川氏・毛利氏が闘争を続け、1540年から1566年の間に六つの主要な合戦が起きた。
図12-1:中国地方の合戦
合戦 |
年 |
合戦相手と兵力 |
勝敗とその後の影響 |
安芸郡山城の攻防 |
1540-41 |
【尼子詮久3万】 尼子晴久・国久・久幸 |
【毛利元就1万2400】 陶隆房(援軍・大内軍) |
毛利氏が勝利。尼子氏は出雲に撤退し、威信を失った。 |
月山冨田城の攻防 |
1543 |
【大内義隆4万】 陶隆房・弘中隆兼・毛利元就 |
【尼子晴久1万5千】 |
大内軍撤退。尼子氏、冨田城を死守。この合戦後、尼子氏は勢力拡大し、石見の大森銀山を奪った。 |
大内家家臣・陶隆房の謀反 |
1551 |
【陶隆房(=晴賢)5000】 杉重矩・内藤興盛 |
【大内義隆3000】 |
大内義隆、自刃。 |
折敷畑の合戦 |
1554 |
【陶晴賢7000】 宮川房長・彦五郎 |
【毛利元就3000】 小早川隆景・吉川元春・宍戸隆家・福原貞俊 |
毛利氏が勝利。 |
厳島の合戦 |
1555 |
【陶晴賢2万】 三浦房清・弘中隆兼 |
【毛利元就4000】 小早川隆景・吉川元春 |
陶氏滅亡。 |
第二次月山冨田城の攻防 |
1565-66 |
【毛利元就3万5000】 毛利輝元・福原貞俊・吉川元春・吉川元長・小早川隆景 |
【尼子義久1万2400】 尼子倫久・秀久 |
尼子義久、投降。後に、彼は、佐々木姓を名乗り、毛利家臣となった。 |
[文献表56番116-117頁・57番35-57頁]
福屋隆兼ゆかりの城
本明城 (江津市有福温泉町本明) 第10章を参照。
川上松山城(江津市松川町市村)
曲輪。鎌倉末期に地頭川上氏により築城された。 時代と共に城主が変わり、最後の城主は福屋隆兼であった [文献表37番・61番189頁]。
「Old castles 松山城」 [文献表37番]
尼御前城(江津市旭村重富)
重富氏は今市家古屋城主・福屋盛時八千貫の有能な家臣であった。永禄4年〈1561〉、主人たる福屋氏に攻められ落城した。これは毛利元就の策謀によるものであった [文献表18番]。
尼御前城跡、「歴史を歩く(旭)− 島根県浜田市」 [文献表18番]
福屋隆兼
この動乱の時代を福屋太郎隆兼(12代本明城主。左衛門尉。正兼の長子。式部大輔。一に、大輔 [文献表2番23-24頁]。)は生きた。次の記述は隆兼の歴史を追ったものである。
天文9年〈1540年〉、尼子晴久が毛利元就を吉田城に攻めた。尼子氏に従った者多く、隆兼もその一人であった。だが、尼子勢は大敗した。この敗戦は国衆13人を尼子氏から離反させて大内軍に付かせる結果となった。13武将は「御味方二参シ先陣二進ミ申スベシ」『陰徳太平記』と寝返った。これらの武将は福屋隆兼・三吉広隆・高野山久意・三沢為清・三刀屋久佑・本庄経光・穴道正隆・阿津久家・吉川興経・山内隆通・宮若狭守・古志吉信・出羽助盛 [文献表11番33頁]。
『石見八重葎』 石田春律が文化14年(1817)に 刊行 [文献表40番253頁]。
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『八重葎』によると、天文10年〈1541年〉、隆兼は松山城(江津市松川町市村)の松山氏を攻め滅ぼし、隆兼の弟・福屋隆任(澄任)をこの城に置く [文献表1番・12番5173頁] 。
天文22年〈1553〉、福屋氏と小笠原氏の間で争いが起きた。これは熊ヶ峠城(邑智郡邑南町矢上)と日和城(邑南町日和大釜谷)との間であった。熊ヶ峠城主は三宅筑前守勝貞であり、彼の妻は「福光城主・福屋隆利の女」『石見誌』であった。一方、日和城主は小笠原氏家老の寺本であった [文献表38番・39番・61番189頁]。
天文24年〈1555〉、吉川元春配下の飯田・熊谷が石見に侵攻した。この折、毛利軍が井野黒見山で三隅・益田・永安軍と交戦した。福屋隆兼・周布元兼・山根義房らが毛利軍に味方し、矢懸城主・永安兼政大和守討伐に加わった。その結果、隆兼は永安領七ヶ所の地所打渡状を受けた [文献表25番] 。
『雲州軍話』によると、「福屋超中守隆久が籠りたる中村、松山、乙明の三ヶ所云々、弘治二年(1556)の夏、吉田勢に攻め落さる」 [文献表12番5173頁]。
和暦 |
西暦 |
天文22年 |
1553 |
天文23年 |
1554 |
天文24年 =弘治1年 |
1555 |
弘治2年 |
1556 |
弘治3年 |
1557 |
永禄1年 |
1558 |
永禄2年 |
1559 |
永禄3年 |
1560 |
永禄4年 |
1561 |
永禄5年 |
1562 |
丸山伝記によると、永禄元年、吉川元春が本明城に向かった。隆兼は毛利元就に恭順し、隆兼本領安堵 [文献表2番24頁]。
永禄元年(1558)5月、毛利元就は小笠原長雄の拠る温湯城(邑智郡川本)攻撃を命令した。主将・吉川元春をはじめ、福屋隆兼・出羽元実・佐波秀連・益田藤兼が攻めた。尼子氏が小笠原氏を支援したにもかかわらず、翌年8月、小笠原氏は温湯城を開城して降伏した [文献表66番]。
永禄3年〈1560年〉、毛利元就は福屋隆兼の領地を隆兼と敵対関係にあった小笠原長雄に与えた。隆兼は替地を元就から与えられた。けれども、隆兼はこれに不満を抱き、毛利氏に後の反乱を起こす切掛となった [文献表37番・92番]。
永禄4年〈1561年〉7月、毛利元就が福屋隆兼に二男・次郎を人質に差し出すように要請した。しかし、隆兼は尼子氏と通じていた。次郎を人質として尼子義久に送る約束をすでにしていた [文献表92番]。毛利が大友氏との戦いで九州に遠征している間に隆兼は毛利氏に反旗を翻した [文献表37番]。
永禄4年〈1561年〉11月6日、福屋隆兼(隆兼軍2000人と尼子方の湯惟宗軍3000人)は福光城(下記の福光城主吉川三代を参照)を攻めた。しかし、吉川経安は鉄砲を使い撃退した [文献表21番397頁・36番・66番12頁・92番]。
福光城主吉川三代 [文献表29番・61番188-189頁]
福光氏 ☆ 戦国時代には福光氏の館城だった。
吉川経安 ☆ 永禄2年〈1559〉に、吉川経安が館城を改造し福光城を築いた。
↓
吉川経家 ☆ 天正9年〈1581〉に、鳥取城籠城の後、自刀した。
↓
吉川経実 ☆ 慶長6年〈1601〉に、吉川本家の家老として迎えられ岩国へ移住した。
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下記二つの引用文は永禄5年〈1562〉2月2日の松山城と本明城攻防を描いたものである。(二つ目の引用文は「永禄四年二月二日」 [文献表12番5174頁]と記しているのに反し、他の文献では「永禄五〈1562〉年二月」 [文献表92番]となっている。)
「藝州勢・温湯の城を取圍み、近日沒落すべしと、石州の味方共、尼子晴久へ注進しければ、更に後詰すべしとて、領國の勢を催し、其の勢一萬八千騎、七月五日、石州江の川を隔てて陣取り、先づ河上の松山の城を攻め亡ぼし、本陣として、其の後船を浮べ?を組んで、江の川を安々と渡さんとて、惣軍勢一萬八千餘・閧を鐘と上げ、松山の城へ切り懸かる。彼の城には福屋隆包より神村下野守を先として、究竟の兵六百餘騎籠りけるが、間近く敵を引受け散々に射立ければ、敵進み兼ねたる所を、城中より突いて出で、寄手數人を討ち取りけり。福屋隆包は元就に興し、戦忠を盡しけるが、隆景朝臣と不和の事出来て、流牢の身と成るのみか、多くの一族若黨を亡ぼしけるとぞ聞えし。」[文献表12番5173-5174頁]『安西軍策』による。
「永禄四年二月二日、 河上の松山を攻むべしとて、元就朝臣父子四人・大江へ陣を易へ給ふ。去る程大手の門己に破れければ、森脇釆女正・懸入り一番に頸を提げて来る。二番に境孫次郎能き頸打って歸りける。城中にも宗徒の兵一千五百楯籠り、攻入れば切出で、切出で、責入りける。吉田勢には福原十郎三郎, 宍戸手には江田木工助、市原四兵衛など討死す。其の後諸方より乱入、彼所に追詰めて討取り、頸数一千七十三とぞ記しける。吉田勢には福原宗右衛門、渡邊神右衛門、桂、三戸、井上等分捕してけり。
角て福屋は頼み切ったる松山の城をば攻め落とされ、矢上の城は明退きぬ。今は、家城・阿登の音明の一城に成りしかば、如何はせんと案じ, 続いて居りける間, 元春・先陣として元就朝臣すでに音明の郷へ打ち入り給ふと聞こえしかば、一族朗等を集め、元就すでに当城へ発向と聞ゆ。ここに引受け一戦の中に家の存亡を試すべきや, 各々所存の趣きを申すべしと云ひければ、元就の謀にほだされ、重富を先として一族朗等を亡ぼししかば、今の小勢にては叶ふまじ、先づ当城を一旦開き, 重ねて尼子を頼み、御入国あるべしと、各々諫めければ、隆包(兼)、この儀に同じ、取る物も取り敢えず、夜中に城を忍び出て、浜田の細超といふ山へ取り上りけり。元就重臣, 続いて追懸け給へ場、ここにも怺えず船に取乗り雲州へ着きけるが、また彼の地にも留まらず、大和志貴の城に在りとぞ聞こえ志、と見ゆ。」 [文献表12番5174頁]。
松山城を攻めるために毛利元就父子四人は大江に陣を張った。城中には兵千五百程が立て籠り、毛利氏が攻めれば切り出し、切り出して攻防を繰り広げた。毛利氏方では福原十郎三郎, 江田木工助らが討死した。しかし、やがて城の諸方より毛利勢が乱入し、福屋方で討ち取られた首級は千七百余であったという [文献表1番] (『安西軍策』による)。
ここに、「天福以来、12代330年続いた福屋氏の歴史の幕を閉じ」た [文献表34番]。
永禄5年〈1562〉2月、隆兼と嫡男・彦太郎は出雲の尼子義久を頼ったが拒絶される。この時すでに尼子義久は毛利元就と和睦していた [文献表37番・42番・92番]。
志貴山城(=信貴山城)を居城とした大和の松永久秀〈1510-1577〉を隆兼は頼った [文献表27番・36番・37番・42番・66番12頁]。 だが、隆兼が大和の国に滞在した期間は明らかでは無い。
永禄12年、再挙を図ったが、成らず [文献表2番23頁] 。この再挙の詳細は不明である。
隆兼は阿波・蜂須賀氏に仕えたと伝えられている [文献表21番397頁・27番・36番・37番・42番・77番]。けれども、隆兼が阿波に住んだという具体的な史実や根拠をこれらの文献は示していない。(阿波での隆兼について、第14章 を参照。)
この章は福屋隆兼について述べた。次の第13章は彼の家族をみていく。
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初版公開:2009年6月9日
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