福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第18章
福屋隆兼三男・宮丸《岩国》



この章は我が家に伝わる文献を扱う。これを翻訳することで福屋宮丸に関して考えてみる。なお、この章で私の文章を【事実】・【意味】・【推測】と区別した。なぜなら、これらを混同するのを避ける為である。【事実】とは歴史資料を基に一般的に事実とみなされている事を意味する。【意味】とは文脈の文字どうりの意味である。【推測】とは私個人の想像的解釈である。したがって、【推測】と示した内容を支持する歴史的証拠は残念ながら私の手元には無い。

系図L

※1 [第13章の系図Hから続く] → 隆兼 → 宮丸 → [第19章の系図Mに続く]
[文献表3番9-10頁]


福屋宮丸:永禄3年〈1560〉以前

※1 福屋宮丸(後に井出原官助と名乗る。)









丗二代刑部少輔隆兼三男福屋宮丸七代之孫源右衛門兼政舎弟 [文献表3番8頁]


「丗二代」 :【意味】 二十二代。

「刑部少輔」 :【意味】 刑部省ぎょうぶしょうは現在の裁判所にあたる。職員には卿一人、大輔たいゆう、少輔各一人などがいた [文献表69番325頁]。他の文献 [文献表2番23頁] に、隆兼は式部大輔しきぶたいゆうとある。式部省は現在の人事院にあたる [文献表69番511頁]。但し、隆兼のこれらの位は中央政権ではなく、石見の国における位である。

「隆兼三男福屋宮丸」: 【意味】 福屋隆兼の三男である福屋宮丸。

「七代之孫」: 【意味】 七世代後の。

「舎弟」: 【意味】 弟

「源右衛門兼政舎弟」: 【意味】 私(このウェブ・サイトの著者)は福屋勘十郎 [宝永ほうえい5年〈1708〉没](第19章参照)の流れを汲みます。勘十郎は福屋源右衛門兼政の弟です。





曰 宮丸幼少ヨリ叔父豊前守兼之厄害シテ置ける処乱逆ノ暇ナキ故井出原官左衛門江預テ井田邑二住ス于時隆兼没落ノ後永禄三年吉川家江出ス当然本名用捨シテ井出原官助ト名乗ラシム [文献表3番8-9頁]



私は次のような解釈をした。

福屋宮丸の叔父にあたる豊前守井田兼之は、何らかの困難にあっていたので、福屋隆兼に対し謀反を起こすことはなかった。この為、隆兼は自分の息子・宮丸を幼少の時から井田兼之に仕える井出原官左衛門に預けた。宮丸は官左衛門と共に井田村に住んでいた時、隆兼がいくさに負けた後の永禄三年に、井出原官左衛門は宮丸を石見吉川家に養子として出した。この為、当然ながら福屋宮丸という名を捨てて井出原官助と名乗った。



「曰」:【意味】 いわく。

「叔父豊前守兼之」: 【推測】 彼は井田むらに住んでいたのであろうか。【推測】 井田邑に住んだという推測を基に考えると、井田兼之の可能性がある。【推測】 又は、福屋兼之かもしれない。

【事実】 2代本明城主・福屋兼仲の四男・兼保は井田氏祖となった (下記の福屋氏系図を参照) [文献表3番・14番]。【推測】 豊前守兼之は、井田兼保の子孫であろうか。【事実】 「福屋兼仲の子兼保が井田を名のったとみえ、福屋氏の所領であったらしいが、明らかでない」 [文献表11番107頁] 。


福屋氏系図 [文献表3番・14番]
兼仲 (2代本明城主)┏ 嫡男・兼親 (3代本明城主) →
                  ┣ 二男・兼継 (福光氏祖) →
                  ┣ 三男・兼網 (横道氏祖) →
                  ┗ 四男・兼保 (井田氏祖) →


「宮丸幼少ヨリ」: 【推測】 この語句が修飾するのは二とうり考えられる。「兼之厄害シテ」か。それとも、「預テ」か。

「厄害シ」:【推測】 厄難と解釈し、わざわい。災難。

「置ける」:【意味】 ある状態を続ける意。

「乱逆」:【意味】 謀反。

「暇」:【意味】 時間のゆとり。都合のよい機会。

「叔父豊前守兼之・・・乱逆ノ暇ナキ」:【解釈】 福屋氏に対する謀反と解釈できる。

「故」:【意味】 これは原因・理由を示す。しかし、この文脈において因果関係が不明確である。何故、兼之が謀反するゆとりが無い為、宮丸を預けたのか意味をなさない。


「井出原官左衛門」:【推測】 彼は福屋隆兼に仕えていたのであろうか。それとも、豊前守兼之に仕えていたのであろうか。

「井田邑」:【事実】 現在の島根県温泉津ゆのつ井田いだ(飯田とも書く)。【事実】 「井田むら」は岩見国「邇摩にま郡大家荘西郷」 [文献表11番107頁] 。

「于時」:【意味】 〜時に、

「隆兼没落ノ後永禄えいろく三年」:【事実】 隆兼没落は通常永禄五年とされているものが多い。しかし、『石見志』には、福屋二郎隆任「永禄三年落城出雲に走る」[文献表12番5174頁]とある。 又、「永禄四年〈1561〉の福屋氏滅亡」[文献表11番794頁]ともある。

「吉川家」:【解釈】 どの吉川家であるかは不明である。

「出ス」:【推測】 宮丸を出した理由は隆兼が戦いに負けた後、宮丸の命を助けるためであろう。

「当然」:【解釈】 これは宮丸を養子に出した事を暗示しているのかもしれない。名前を変えるのが当然と解釈できる。

「本名用捨シテ」:【解釈】 福屋という名を捨てて。

「名乗ラシム」:【解釈】 使役動詞。宮丸に井出原官助と名乗らせた誰かの存在を暗示している。



福屋宮丸:永禄3年〈1560〉以後


【疑問】 永禄えいろく3年〈1560〉から慶長けいちょう6年〈1601〉までの41年間、宮丸、つまり井出原官助と彼の跡取りが何処に住み、誰に仕えたのであろうか。 【事実】 ちなみに、1560年は桶狭間の戦い(織田信長が今川義元を破る。)から1600年の関ヶ原の戦いである。 【疑問】 「宮丸が何処の吉川家に出されたか。」という疑問が重要になってくる。【事実】 吉川家は五つに分かれる (下記の吉川家系図を参照)。【事実】 結論から言うと、確たる証拠が無い為、宮丸と彼の跡取りの生活は不明である。

吉川家 [文献表48番・63番]
経光┏ 経高 (安芸吉川家) →(六世代省略)→ 国経 
    ┣ 経盛 (播磨吉川家) →
    ┣ 経茂 (石見吉川家) →(九世代省略)→ 経実
    ┣ 経信 (境氏吉川家) →
    ┗ 経時 (駿河吉川家) →


吉川家の細詳な系図は「吉川氏の家系と歴史」 [文献表63番]。

次に記述したものは私の想像である。【推測】 少なくとも、二つの可能性がある。【推測】 第一の可能性は安芸吉川家の流れで、宮丸、つまり井出原官助と彼の跡取りは吉川広家(岩国毛利家)に仕えた。【事実】 宮丸の父・福屋隆兼の室は吉川国経の女である [文献表73番]。【事実】吉川国経は安芸吉川家の流れを汲む [文献表63番]。【推測】 この関係で、宮丸が安芸吉川家に預けられたかもしれない。ちなみに、宮丸から13代後の福屋半左衛門 [嘉永4年〈1851年〉2月15日没]の墓は山口県萩市に在る。

【推測】 第二の可能性は石見吉川家の流れで、彼らは吉川経実(吉川広家・岩国藩の家老)に仕えた。 【事実】 慶長5〈1600〉年10月中旬、吉川広家は出雲国富田城13万石から岩国城主となった。「大阪にいた広家は士卒の大半を出雲へ帰し、特志の者のみ岩国へ随伴することを許した」 [文献表91番193頁] とある。 【推測】 宮丸と彼の跡取りは経実に仕えていて岩国に移住したのであろう。【推測】 双方の可能性とも井出原官助と彼の跡取りは岩国藩に仕える事になる。


【推測】 しかしながら、双方の可能性とも説得力に欠けるかもしれない。宮丸が安芸吉川家に預けられたと仮定しよう。【事実】 安芸吉川家はまもなく毛利元就・元春父子に乗っ取られた。【推測】 隆兼が元就・元春父子に敗れた事を考慮に入れれば、宮丸の命に係わったことになる。

【推測】 その一方、宮丸が石見吉川家に預けられたと仮定しよう。【推測】 この場合、彼は福光に住んだ可能性がある。 【事実】 福光は現在の島根県太田市温泉津ゆのつ町福光 [文献表11番574頁]。【事実】 隆兼の没落時、石見吉川家当主は福光城主・吉川経安であった。【事実】 永禄4年〈1561年〉11月6日、福屋隆兼(隆兼軍2000人と尼子方の湯惟宗ゆこれむね軍3000人)は福光城(吉川経安の居城)を攻めた。しかし、吉川経安は鉄砲を使い撃退した [文献表21番397頁・36番・66番12頁・92番]。【推測】 この事を考慮に入れれば、宮丸の命に係わることになる。

【事実】 いずれにせよ、後に宮丸、又は彼の跡取りは井出原という名をすて福屋に戻した。この理由は明らかではない。




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初版公開:2009年6月9日
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