福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第19章
福屋宮丸《石見》
から
福屋誠一《岩国》
まで



系図M

※1 ※2 *3 *4 [第18章の系図Lから続く] → 隆兼 → 宮丸 → □□ → □□ → □□ → □□ → □□ → □□ → 勘十郎 → 市右衛門 → 半左衛門 → ※5 ※6 ※7 ※8 ※9 市右衛門 → 彌七 → 彌一郎 →半左衛門 → 誠一 → [第22章の系図Nに続く]
[文献表3番9-10頁]
□□:名前不明。



※1 福屋宮丸
詳細は第18章を見よ。

※2 福屋勘十郎 [宝永ほうえい5年〈1708〉没]
勘十郎の兄は源右衛門兼政。

※3 福屋市右衛門 [宝暦ほうれき2年〈1752〉没]

※4 福屋半左衛門 [寛政かんせい3年〈1791〉没、享年87歳]

福屋半九衛門 [寛政3年〈1791〉3月27日没]。半左衛門の兄弟かもしれない。

※5 福屋市右衛門 [寛政9年〈1797〉10月25日没、享年57歳]

※6 福屋彌七やしち [天保てんぽう3年〈1832〉没、享年64歳]

福屋市右衛門 [天保4年〈1833〉没]。彼は二代目市右衛門で彌七の兄弟かもしれない。

※7 福屋彌一郎 [天保6年〈1835〉没、享年28歳]

※8 福屋半左衛門 [嘉永かえい4年〈1851〉2月15日没、享年47歳、俗名・藤原家]

半左衛門の墓は西光寺(山口県萩市瓦町3番地)に在る。

半左衛門の母(名前不明) [天保てんぽう9年〈1838〉9月19日没]

半左衛門の妻・さやは、山口県周防国玖珂郡横山村、佐野伊勢次郎 (士族)の長女として、文化14年10月27日誕生、天保6年10月10日に入籍、明治30年4月7日に79歳で永眠した。

半左衛門と妻・さやには長男・まさゆきと二男・誠一がいた。まさゆきは渡辺家へ養子にいった。まさゆきの子・渡辺よしのぶは五稜郭の戦い(箱館戦争)で海軍少将として維新政府軍に列した。五稜郭の戦いは明治2年〈1869〉5月、榎本武揚たけあきが率いる旧幕軍と維新政府軍間の戦い [文献表69番461頁]。


現、山口県岩国市横山
1601年、吉川広家は城郭と城下町の設計を始めた。
横山の頂きに要害を築き、南麓に居館を構えた。
横山に上級武家屋敷を、川西・錦見・千石原に
中・下級武家屋敷を配置した [文献表41番20頁]。

※9 福屋誠一
誠一は半左衛門とさやの次男である。

最初、誠一は山口県周防国すおうのくに玖珂くか郡川西村 氏神大区 第五小区 椎尾しいお 八幡宮寺と同大区 第六小区 真宗 西福寺に住んだ。これは現在の岩国市川西である。明治27〈1894年〉年測図による地図 [文献表90番210頁] によると、川西には寺が四つ存在した。この内のどれかであろう。だが、この二つの寺はもう存在しない。

次に、彼らは山口県周防国玖珂郡由宇ゆう村第375に屋敷を借りた。

最後に (明治17年)、山口県周防国玖珂郡由宇村第444に移転した [文献表3番] 。

千世ちせ(妻)
誠一の先妻・千世は入植時44歳。嘉永かえい3年1月19日誕生。 明治16年9月1日不縁。明治30年7月3日没、享年47歳。

全熊(長男)
慶応2年2月9日誕生。明治14年11月16日、全熊は中本家へ養子にいった為、廃嫡。その後、彼はハワイ州に移民した。

よね(長女)
明治9年10月11日誕生。明治13年10月7日没、享年4歳。


福屋源五左衛門 [明治6年〈1873〉12月10日没] 防州岩国本家先祖 [文献表3番3頁]。半左衛門の兄である可能性が高い。





屯田兵志願条件

玖珂郡由宇ゆう村で誠一と千世は屯田制度を知った。屯田兵志願条件はたった二つであった。 まず、戸主が17歳から25歳の間である事、そして、その家族が15歳以上から60歳までの者が三人以上である事 [文献表35番42頁]。誠一とさやは住み慣れた土地を離れることに躊躇ためらいも感じたが、その一方で、新たな地に希望を抱いたのである。そして、終に北海道に移り住むことを決心したのである。(第22章に続く。)

次の第20章は岩国藩の福屋16人をみる。



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初版公開:2009年6月9日
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