福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第22章
北海道2群
福屋誠一子孫 1世・2世





この章は最初に歴史的背景として屯田制度と北海道当麻村を扱う。


屯田制度

明治時代、北海道の人口は屯田兵のおかげで急激に増加した。この屯田制度は警備・開拓・失業士族再就職の一石三鳥を狙いとした。明治6年〈1873〉、日本政府はロシアやアメリカ等の強国による北海道と樺太の殖民地支配を恐れていた。このため、早急な北海道の警備と開拓を必要とした。これに対して本州では、失業した没落武士が路頭に迷っていた [文献表35番37頁]。 こうした政治的・経済的背景の中で、明治7年〈1874〉10月に、政府は屯田例則を発布した。翌年、札幌市西郊・琴似に入地した士族198戸が開拓の先兵となった [文献表24番838頁]。その後、明治37年に屯田兵令が廃止されるまで、7337名の屯田兵が、約4万人の家族と共に、全国各地から全道37兵村に入植した [文献表45番1頁]。この間、改革が実施された、すなわち、平民屯田の導入である。明治8年から27年までに入植した24ヶ村が士族屯田、その後入植した13ヶ村が平民屯田となった [文献表44番2頁]。


北海道当麻村

明治26年〈1893年〉5月10日から18日の間に、屯田兵400戸が北海道当麻村 (現在の上川郡当麻町) に入植した [文献表35番56頁]。このうち山口県出身は52戸であり、広島県(54戸)と徳島県(54戸)に次ぐ多さであった。山口県出身52戸のうち玖珂くか郡出身者は27戸であった。だが、由宇ゆう村からは福屋誠一家のみであった [文献表44番189頁・192頁・199頁]。福屋家五人(サヤ、誠一、マツ、正次、守三)は西兵村兵屋番号102に住み、すぐに慣れない生活が始まった。そして、同年8月1日、五人は第200番に転籍した。 屯田兵の任務は半農半兵であった。最初、一般畑作以外では、製麻・養蚕が奨励されていた。そして、明治29年に、水稲試作が実施され、同34年に、灌漑溝掘削かんがいみぞくっさく工事が完成して、開田がはじまった。その一方、明治28年〈1895〉に、日清戦争に動員された。けれども、実戦には不参加だった。これに対し、明治37年〈1904〉、200余人が日露戦争に従軍した [文献表7番936頁]。




福屋氏 〜北海道〜



系図N

[第19章の系図Mから続く。] → ※2 ※3 ┌ 正次 == マツ ※1 │ 誠一 ───│ │ └ 守三 ※4
[文献表3番10-11頁]

== :夫婦関係を示す。

福屋サヤ第19章参照。)
誠一の母。入植時76歳。明治30年4月7日没。

※1 福屋誠一
入植時46歳。嘉永元年〈1848〉1月17日誕生。昭和8年1月28日没、享年86歳。岩国藩御鉄砲組に属した [文献表6番36頁]。明治4年〈1871〉の廃藩時に誠一は23歳。

※2 福屋正次まさじ
誠一の嫡男・正次は入植時21歳。明治6年8月20日誕生。 昭和16年11月26日没、享年68歳。

※3 福屋マツ(正次の妻)
山口県周防国すおうのくに玖珂くか由宇ゆう村、奥村文太郎の長女として明治8年4月2日誕生。入植直前の明治26年3月8日に入籍。明治34年12月23日没、享年27歳。

※4 福屋守三
誠一の二男・守三は入植時14歳。


この後に続く「第23章 北海道2群: 福屋誠一の子孫 3世・4世」は未公開です。



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初版公開:2009年6月9日
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