福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第6章
藤原鎌足【藤原氏の祖】
から
藤原房前【藤原北家の祖】
まで《奈良》



中臣氏⇒藤原氏⇒御神本氏⇒益田氏⇒福屋氏

系図B

※1 ※2 ※3
[第5章の系図Aから続く] → 鎌足 → 不比等 → 房前 → [第7章の系図Cに続く]
[文献表2番14-17頁]

※1 中臣鎌足なかとみのかまたり〈614-669年〉

初め、中臣鎌子と称す。是より藤原氏、故に、藤原鎌足。正二位。内大臣。父は中臣御気子みけこ。母は大伴咋おおともいくの女智仙娘。

皇極3年〈644〉、(35代)皇極こうぎょく天皇は鎌足を神祇伯に任命した。が、鎌足はこれを辞退して病を理由に摂津三嶋に隠棲した。鎌足は、かる皇子(孝徳天皇)、ついで、中大兄皇子なかのおおえのおうじと親交を深めた。

この当時、蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるか父子が政界の実権を握るばかりか、専横をふるっていた。たとえば、彼らは家を甘橿あまかし岡に建て、天子が行うべきやつらの舞を行い、山背大兄皇子やましろのおおえのおうじを暗殺した。

これに対して、鎌足と中大兄皇子は南淵請安みなみふちのしょうあんから律令制の新しい概念を学び、反蘇我氏主義で結束していった。こうした背景の中で、大化1年〈645〉6月、大極殿において三韓進調の儀式の時、鎌足と中大兄皇子は蘇我入鹿を斬殺した。翌日、蝦夷えみし邸を包囲し、蝦夷は自尽した。これが、乙巳いつしの変である。(この乙巳の変における中大兄皇子主謀説に対し、かる皇子主謀説 [文献表79番] がある。)

この事件後の政治改革を大化改新という。皇極天皇は退位に際し、中大兄皇子に位を譲る事を提案した。しかし、中大兄皇子には時期尚早と唱える鎌足の進言により、軽皇子が即位した。同時に、(36代)孝徳こうとく天皇は鎌足を内臣うちつおみに任じ、鎌足は皇太子中大兄を補佐した。こうして、大化2年〈646〉、改新のみことのりが発布され政治改革が行われた。

この後も鎌足は政府の中心として活躍した。中大兄皇子即位(38代天智てんじ天皇)後、天智2年〈663〉8月、百済救援軍が白村江はくすきのえで唐・新羅連合軍に敗れた。この4年後の天智6年〈667〉3月、鎌足は近江大津遷都と近江令の撰集に尽力した。しかし、天智8年〈669〉10月、臨終の時が鎌足にやって来た。この時、彼は藤原姓と飛鳥時代の最高位・大識冠たいしょくかんを賜った。

[文献表23番741頁・24番993頁・71番8頁]


※2 藤原不比等〈659-720年〉

鎌足と車持国子くるまもちのくにこの女・与志古よしこの次男。持統3年〈689年〉、判事に任命された。文武2年〈698年〉、藤原姓の独占的使用を許可された。文武4年〈700年〉、刑部くさかべ親王と共に大宝律令の撰修に着手し、翌年―大宝元年〈701年〉、これを完成した。この年、正三位、大納言を受け、和銅元年〈708年〉、右大臣に登る。

太政だいじょう官事穂積ほづみ親玉のもとで、律令体制を推し進め、養老2年〈718年〉に大宝律令を修正し養老律令を選定した。この間、平城京遷都に際し、新しい京の経営に尽力した。没後に、鎌足は太政大臣正一位を贈られ、淡海公と号した [文献表23番750頁・24番997頁]。

不比等に四男子・五女子があった。長子の武智麻呂むちまろ〈680-737〉が南家、房前ふささき〈681-737〉が北家ほっけ宇合うまかい〈694-737〉が式家、そして、麻呂〈695-737〉が京家をひらいた。これを藤原四家とよぶ。四人とも737年に天然痘で亡くなった [文献表24番991頁]。五女子は下記のとうりである。


藤原不比等の子 [文献表24番991頁・96番]
┏武智麻呂 【南家】
┣房前 【北家】
┣宮子 〈生年不詳-754〉(文武天皇妃・聖武天皇母)
┣安宿媛あすかべひめ(別名、光明子こうみょうし・聖武天皇皇后)
┣女 (大判古慈斐室)
┣長蛾子(長屋王夫人)
┣多比能 (橘諸兄室)
┣宇合 【式家】
┗麻呂 【京家】













中臣鎌足と藤原不比等に関しての更なる情報は藤原氏元祖考(鎌足─藤原四家始祖) [文献表96番] を参照。

※3 藤原房前ふささき
(詳細は7章を参照。)





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初版公開:2009年6月9日
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