※1 中臣鎌足〈614-669年〉
初め、中臣鎌子と称す。是より藤原氏、故に、藤原鎌足。正二位。内大臣。父は中臣御気子。母は大伴咋の女智仙娘。
皇極3年〈644〉、(35代)皇極天皇は鎌足を神祇伯に任命した。が、鎌足はこれを辞退して病を理由に摂津三嶋に隠棲した。鎌足は、軽皇子(孝徳天皇)、ついで、中大兄皇子と親交を深めた。
この当時、蘇我蝦夷・入鹿父子が政界の実権を握るばかりか、専横をふるっていた。たとえば、彼らは家を甘橿岡に建て、天子が行うべきやつらの舞を行い、山背大兄皇子を暗殺した。
これに対して、鎌足と中大兄皇子は南淵請安から律令制の新しい概念を学び、反蘇我氏主義で結束していった。こうした背景の中で、大化1年〈645〉6月、大極殿において三韓進調の儀式の時、鎌足と中大兄皇子は蘇我入鹿を斬殺した。翌日、蝦夷邸を包囲し、蝦夷は自尽した。これが、乙巳の変である。(この乙巳の変における中大兄皇子主謀説に対し、軽皇子主謀説 [文献表79番] がある。)
この事件後の政治改革を大化改新という。皇極天皇は退位に際し、中大兄皇子に位を譲る事を提案した。しかし、中大兄皇子には時期尚早と唱える鎌足の進言により、軽皇子が即位した。同時に、(36代)孝徳天皇は鎌足を内臣に任じ、鎌足は皇太子中大兄を補佐した。こうして、大化2年〈646〉、改新の詔が発布され政治改革が行われた。
この後も鎌足は政府の中心として活躍した。中大兄皇子即位(38代天智天皇)後、天智2年〈663〉8月、百済救援軍が白村江で唐・新羅連合軍に敗れた。この4年後の天智6年〈667〉3月、鎌足は近江大津遷都と近江令の撰集に尽力した。しかし、天智8年〈669〉10月、臨終の時が鎌足にやって来た。この時、彼は藤原姓と飛鳥時代の最高位・大識冠を賜った。
[文献表23番741頁・24番993頁・71番8頁]
※2 藤原不比等〈659-720年〉
鎌足と車持国子の女・与志古の次男。持統3年〈689年〉、判事に任命された。文武2年〈698年〉、藤原姓の独占的使用を許可された。文武4年〈700年〉、刑部親王と共に大宝律令の撰修に着手し、翌年―大宝元年〈701年〉、これを完成した。この年、正三位、大納言を受け、和銅元年〈708年〉、右大臣に登る。
知太政官事穂積親玉のもとで、律令体制を推し進め、養老2年〈718年〉に大宝律令を修正し養老律令を選定した。この間、平城京遷都に際し、新しい京の経営に尽力した。没後に、鎌足は太政大臣正一位を贈られ、淡海公と号した [文献表23番750頁・24番997頁]。
不比等に四男子・五女子があった。長子の武智麻呂〈680-737〉が南家、房前〈681-737〉が北家、宇合〈694-737〉が式家、そして、麻呂〈695-737〉が京家をひらいた。これを藤原四家とよぶ。四人とも737年に天然痘で亡くなった [文献表24番991頁]。五女子は下記のとうりである。
藤原不比等の子 [文献表24番991頁・96番]
┏武智麻呂 【南家】
┣房前 【北家】
┣宮子 〈生年不詳-754〉(文武天皇妃・聖武天皇母)
┣安宿媛(別名、光明子・聖武天皇皇后)
┣女 (大判古慈斐室)
┣長蛾子(長屋王夫人)
┣多比能 (橘諸兄室)
┣宇合 【式家】
┗麻呂 【京家】
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中臣鎌足と藤原不比等に関しての更なる情報は藤原氏元祖考(鎌足─藤原四家始祖) [文献表96番] を参照。
※3 藤原房前
(詳細は7章を参照。)
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