福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第9章
益田兼高【益田氏の祖】
から
益田兼広【福屋氏の祖】
まで《石見》



中臣氏⇒藤原氏⇒御神本氏⇒益田氏⇒福屋氏

第8章では御神本氏から益田氏への移行に着眼した。この第9章では益田氏から福屋氏への移行を説明する。

系図E

※1 ※2 [第8章の系図Dから続く] 兼高 → 兼広 → [第10章の系図Fに続く]
[文献表2番17-18頁・9番・70番659頁]

益田氏・三隅氏・福屋氏を石見三氏と言った [文献表11番]。

益田氏

※1 御神本みかもと兼高、或は、益田兼高(兼恒・兼経・権介とも称す) [文献表2番]。


益田氏一族の家紋には"久"の一字がある。益田氏が藤に久三隅みすみ氏が庵に久周布すふ氏が亀甲に久、福屋氏が一に久 [文献表 1番・9番]。これらに"久"が付くのは益田兼恒が建久3年〈1192〉に益田に移り住んだ事に由来している。建久の"久"の字である [文献表9番]。


建久けんきゅう3年〈1192〉、兼高は益田(現在の島根県益田市)に住み、是より益田氏を称した [文献表9番]。そして、彼が益田七尾城ななおじょう(益田市七尾町)を築城した [文献表61番189頁・82番]。益田氏230年間の居館は益田市三宅町にある [文献表61番189頁]。

益田氏系図によると益田家に御神本氏を含めている。つまり、御神本国兼を益田氏初代、御神本兼眞を二代、御神本兼栄を三代、益田兼高を四代、兼季を五代としている [文献表9番・19番] (下記の益田家系図を参照)。この後、江戸幕末時、益田家は三十三代当主・右衛門佐親施ちかのぶであり、明治維新後、益田氏は華族に列した [文献表9番]。


兼高の嫡男ちゃくなんは兼季、次男は兼信、三男は兼広であった (下記の益田家系図を参照)。嫡男・兼季(益田右衛門尉)が益田氏を継いだ [文献表9番]。


益田家の系図 [文献表9番]
〈益田氏初代〉 〈益田氏二代〉  〈益田氏三代〉 〈益田氏四代〉〈益田氏五代〉〈益田氏六代〉〈益田氏七代〉

(御神本)国兼 → (御神本)兼眞 → (御神本)兼栄 → (益田)兼高 ┳ (益田)兼季 ┳ (益田)兼時 → (益田)兼経 →  
                                                       ┣ (三隅)兼信 ┣ (周布)兼定
                                                       ┗ (福屋)兼広




益田家に関しての詳細は「大江家歴世歌」の益田家歴世歌 [文献表19番] あるいは、「武家家伝_益田氏」 [文献表9番] を参照にしてください。


三隅氏

寛喜元〈1229〉年、益田兼高の次男・益田兼信が三隅みすみ(現在の島根県三隅市)に住み三隅を名乗った(初代三隅城主)[文献表19番・46番] (上記の益田家系図を参照)。三隅城が居城 [文献表61番189頁]。

三隅氏からは、永安氏、竹彦氏、井村氏などが分流している [文献表46番]。


福屋氏

※2 益田兼高の三男、兼広が福屋を名乗った [文献表11番・19番](詳細は第10章を参照)。

福屋氏子孫から福光氏・横道氏・井田氏・堀氏などの庶子しょし家が出た [文献表11番]。


第10章は本明城主・福屋氏を扱う。




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初版公開:2009年6月9日
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