福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第15章
福屋太郎右衛門隆兼《阿波》

12代本明城主・福屋太郎隆兼《石見》



別人

14章で紹介した福屋太郎右衛門隆兼〈生年不明〜1612〉は第12章で紹介した12代本明城主・福屋太郎隆兼〈生年・没年不明〉と別人であると私は推測する。第一の理由は名である。一方は太郎右衛門で他方は太郎である。その上、前者は最初、里村と名乗り、後に、福屋と氏を改めた [文献表50番]。

第二の理由は家族構成である。太郎右衛門隆兼の父は立原久綱で「母氏不詳」であると 『蜂須賀家家臣成立書并系図』 は明記している [文献表50番]。又、他の文献に立原久綱の妻は12代本明城主・隆兼の娘という記録がある [文献表77番]。 つまり、太郎右衛門隆兼の母は太郎隆兼の娘にあたる。

第三の理由は年齢である。 福屋太郎右衛門隆兼は慶長17年〈1612〉に没した [文献表50番]。その一方、12代本明城主・福屋隆兼〈生年・没年不明〉は、天文てんぶん9年〈1540〉尼子氏の毛利攻めに従軍した時、吉田に出陣した [文献表1番]。彼の年齢をこの時、18歳と仮定してみよう。 福屋太郎右衛門隆兼と12代本明城主・福屋隆兼が同一人物であるとした場合、1612年の没年には90歳となる。ましてや、25歳と仮定した場合、97歳となる。これは、人生50年と言われたこの当時の平均寿命を鑑みて非現実的である。たとえば、戦国大名の例外的な長寿者は、吉川経基(享年93歳)[文献表48番]、北条早雲(享年88歳)、毛利元就(享年75歳)、徳川家康(享年75歳)[文献表56番] 等であった。

したがって、福屋太郎隆兼が阿波・蜂須賀氏に仕えたといくつかの文献 [文献表21番・27番・36番・37番] は記している。しかし、これは福屋太郎右衛門隆兼と12代本明城主・福屋太郎隆兼を混同した結果であると私は考える。

もし、私の考えが歴史的事実であれば、12代本明城主・福屋隆兼は 『蜂須賀家家臣成立書并系図』 [文献表50番・51番・52番] に記されていない。



『蜂須賀家家臣成立書并系図』(249冊)は
旧徳島藩主蜂須賀家(現在、徳島大学附属図書館)所蔵である。
この文献は、蜂須賀家家臣1802家代々の家督相続者について
死亡年月日、役職、禄高、家紋などを記録している [文献表58番]。



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初版公開:2009年6月9日 最終更新:2009年7月9日
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