福屋一族の軌跡 | 著者: |
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※1 福屋竹顕 [
竹顕は福屋元繁(第14章の阿波1群:系図Iを参照)の次男である。最初、二十石七人扶持で広間番として勤めた。
この福屋彦太郎竹顕は12代本明城主・福屋隆兼の二男・彦太郎とは別人である。前者は1686年に没したのに対し[文献表51番]、後者は1550-85年頃に、石見・因幡と伯耆で活動した[文献表20番・94番]。
※2 福屋竹澄 [
竹澄は福屋兼連(第14章の阿波1群:系図Iを参照)の三男である。竹顕の養子となった。
※3 福屋兼馗 [享保18年〈1733〉没]
徳音院(五代徳島城主・蜂須賀綱道の法名、藩主在任1666-78年、1678没)[文献表53番]の児小性を勤め、十五石五人扶持であった。その後、御膳番と銀奉行を勤めた。
※4 福屋兼慶 [
蔵奉行として仕えた。
※5 福屋邦喬 [
大番組の御建中山弘組頭を勤めた。後に、書物土蔵番・広間番・蔵奉行を歴任した。米買い付け任務のため大阪に二度行っている。
※6 福屋為義 [
中村衛守組に属した。富田屋敷広間番・本城広間番・次小性・奥小性・林方代官・郡代官として仕えた。
※7 福屋兼美 [
奥小性・薬番を勤めた。江戸と大阪にお供として行っている。
※8 福屋兼吉 [
長江縫殿組に属し、広間番と
安政1年〈1854〉4月9日、黒船が来航した為、徳島藩、羽田・大森一帯の警備を藩士たちは命ぜられる [文献表68番20頁]。兼吉がこれに参加したかは定かで無い。
※9 福屋兼知
石高二百石であった。
『蜂須賀家家臣成立書并系図』(249冊)は 旧徳島藩主蜂須賀家(現在、徳島大学附属図書館)所蔵である。 この文献は、蜂須賀家家臣1802家代々の家督相続者について 死亡年月日、役職、禄高、家紋などを記録している [文献表58番]。 |
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