福屋一族の軌跡 著者:福屋義則ふくやよしのり

第16章
阿波2群
福屋竹顕から兼知まで



2群:福屋彦太郎竹顕

系図J

※1 ※2 ※3 ※4 ※5 ※6 ※7 ※8 ※9 竹顕 → 竹澄 → 兼馗 → 兼慶 → 邦喬 → 為義 → 為美 → 兼古 → 兼知
[文献表51番]


※1 福屋竹顕 [貞享じょうきょう3年〈1686〉没]
竹顕は福屋元繁(第14章の阿波1群:系図Iを参照)の次男である。最初、二十石七人扶持で広間番として勤めた。寛文あんぶん元年、郡奉行となり石高二百石を受ける。南崇院(四代徳島城主・蜂須賀光隆の法名、1666年没)[文献表53番]が藩主在任中〈1652-66年〉、判物項載として勤めた。

この福屋彦太郎竹顕は12代本明城主・福屋隆兼の二男・彦太郎とは別人である。前者は1686年に没したのに対し[文献表51番]、後者は1550-85年頃に、石見・因幡と伯耆で活動した[文献表20番・94番]。

※2 福屋竹澄 [享保きょうほう14年〈1729〉没]
竹澄は福屋兼連(第14章の阿波1群:系図Iを参照)の三男である。竹顕の養子となった。

※3 福屋兼馗 [享保18年〈1733〉没]
徳音院(五代徳島城主・蜂須賀綱道の法名、藩主在任1666-78年、1678没)[文献表53番]の児小性を勤め、十五石五人扶持であった。その後、御膳番と銀奉行を勤めた。

※4 福屋兼慶 [宝暦ほうれき3年〈1753〉没]
蔵奉行として仕えた。

※5 福屋邦喬 [天明てんめい5年〈1785〉没]
大番組の御建中山弘組頭を勤めた。後に、書物土蔵番・広間番・蔵奉行を歴任した。米買い付け任務のため大阪に二度行っている。

※6 福屋為義 [文政ぶんせい11年〈1828〉没]
中村衛守組に属した。富田屋敷広間番・本城広間番・次小性・奥小性・林方代官・郡代官として仕えた。

※7 福屋兼美 [天保てんぽう8年〈1837〉没]
奥小性・薬番を勤めた。江戸と大阪にお供として行っている。

※8 福屋兼吉 [安政あんせい6年〈1859〉没]
長江縫殿組に属し、広間番とうまや目付けを勤めた。異国船が浦賀に渡来した時、兼吉は嘉永6年6月16日に出馬を命じられ、翌日、浦賀に出立した。しかし、兼吉が伏見うまやまで行った時、黒船が去った為、彼はこの地より引き返し6月24日に帰宅した。 実際、ぺリーは6月3日,浦賀に軍艦四隻を率いて来航し、12日に離航した [文献表24番1037頁]。この時間差は安政年間の情報伝達速度に起因しているのであろう。

安政1年〈1854〉4月9日、黒船が来航した為、徳島藩、羽田・大森一帯の警備を藩士たちは命ぜられる [文献表68番20頁]。兼吉がこれに参加したかは定かで無い。

※9 福屋兼知
石高二百石であった。




徳島大学附属図書館所蔵 『蜂須賀家家臣成立書并系図』[文献表51番]を要約


『蜂須賀家家臣成立書并系図』(249冊)は
旧徳島藩主蜂須賀家(現在、徳島大学附属図書館)所蔵である。
この文献は、蜂須賀家家臣1802家代々の家督相続者について
死亡年月日、役職、禄高、家紋などを記録している [文献表58番]。



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初版公開:2009年6月9日 最終更新:2009年7月9日
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