福屋一族の軌跡 | 著者: |
第14、16、17章は、江戸時代初期から江戸終期までの阿波福屋家を紹介する。 第12章で紹介した福屋隆兼は、まず客分として蜂須賀氏に仕え、後に家臣となったと伝えられている [文献表21番・27番・36番・37番・77番]。この伝説に反して、彼は蜂須賀氏に仕えなかったと私は考える(詳細は第15章)。
『蜂須賀家家臣成立書并系図』によると、阿波藩に福屋は三家存在した:(イ)福屋太郎右衛門隆兼、(ロ)福屋彦太郎竹顕、(ハ)福屋三太兵衛兼元。福屋太郎右衛門の末裔は11代、福屋彦太郎の末裔は9代、そして福屋三太兵衛の末裔は9代まで記録が残っている。便宜上、これらを1群、2群、3群と名づけた。これら三系図は時間的に平行するものである。いずれも、
『蜂須賀家家臣成立書并系図』(249冊)は 旧徳島藩主蜂須賀家(現在、徳島大学附属図書館)所蔵である。 この文献は、蜂須賀家家臣1802家代々の家督相続者について 死亡年月日、役職、禄高、家紋などを記録している [文献表58番]。 |
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※1 福屋隆兼(太郎右衛門)[
初め、里村太郎右衛門隆兼と名乗り、福屋太郎右衛門隆兼と姓を変えた。知行高五百石。父は立原久綱〈1531-1613年〉である。瑞雲院(初代徳島城主・蜂須賀家政の法名、藩主在任1585-1600年、1638年没)[文献表53番] の側近として隆兼は朝鮮へお供した。
※2 福屋元繁(権左衛門)[
父・隆兼と同様に、元繁は朝鮮へ瑞雲院(蜂須賀家政の法名、藩主在任1585-1600年、1638年没)[文献表53番]のお供をした。御付侍として、大阪・名古屋・伊豆などにも行った。興源院(三代徳島城主・蜂須賀忠英の法名、1652年没)[文献表53番]が藩主の時〈1620-52年〉、元繁は知行高百石加増になった。その後、検地御用をこなした。
元繁の弟に貞正がいる。貞正は福屋兼元の養子となった(第17章の阿波3群:系図Kを参照)。
※3 福屋兼連(式右衛門)[
兼連の知行高は四百石。
兼連は元繁の嫡男であり、次男は竹顕、三男は兼廣である。次男・竹顕は祖として藩に認められた(第16章の系図Jを参照せよ)。
※4 福屋兼和 [
広間番を勤めた。南崇院(四代徳島城主・蜂須賀光隆の法名、1666年没)[文献表53番]が藩主在任中〈1652-66年〉、兼和は江戸にお供した。
兼和は兼連の嫡男である。姉一人、次男は(出家した)義清、妹一人、三男は竹澄である。竹澄は竹顕の養子となった(第16章の阿波2群:系図Jを参照)。
※5 福屋兼尚 [
三度、江戸にお供した。その後、代官・御膳番・作事方を歴任した。
※6 福屋兼充 [
御丸番・広間番を勤めた。
※7 福屋知兼 [
数度、江戸にお供した。
※8 福屋知栄 [
奥小姓役を勤め、江戸に数度お供した。
※9 福屋兼正 [
御丸番・広間番・塩方代官・蔵奉行を歴任した。
※10 福屋兼通 [
西尾夷則組、後に、稲田雅楽組に入る。蔵奉行と紙方代官として仕めた。
※11 福屋兼網
石高二百石であった。
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