福屋一族の軌跡 | 著者: |
第12章は福屋隆兼について説明した。この章は彼の家族を中心にみていきましょう。下記の系図Hは系図G(第11章)から続き系図L(第18章)に続くものである。
※2 ※3 ※4 ※5 ※6 [文献表2番23頁・3番9頁・12番1078頁]を参考。 |
※1 福屋隆兼の室は吉川国経の娘である [文献表73番]。 彼女の名は不詳。彦太郎、次郎、宮丸の生母が彼女である事を支持する、その反対に、否定する文献は無い。
吉川国経には三男二女がいた。他の娘は毛利元就の正室となり妙玖と称した。
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※2 福屋彦太郎 (嫡男)
第12章で述べたとおり、彦太郎は
『寛政重修緒家譜』〈1964年〉によると、天正8年〈1580〉、豊臣秀吉は福屋彦太郎・亀井茲矩・武田源五郎・赤井五郎忠家に鹿野城(因幡の国)を守らせた [文献表20番・81番]。
明智光秀が
山陽道毛利・吉川・小早川於出、羽藤対陣之由之間、 此度之義ハ、先至彼面可相勤之旨上意ニ候、 着陣之上、様子見合、令変化、伯州へ可向候 至其期別而御馳走所希候 [文献表94番]
織田信長は毛利攻めをしていた秀吉を援助するため、光秀に山陽道への出陣を命じた。この書状で光秀はこういっています。毛利・吉川・小早川軍討伐のため山陽道に出陣しなければならない。いずれ、伯州(伯耆)にいく。
※3 福屋次郎
『石見志』によると、「那賀郡(松山村大字長良櫃之城主福屋二郎隆任・御神本国兼(藤原定道)玄孫福屋兼廣十三世孫なり。永禄三年落城出雲に走る」[12番5174頁]。
※4 福屋宮丸(第18章を見よ。)
※5 娘(名前不明)と彼女の夫・立原久綱
この娘に関しての詳細は不明である。しかし、彼女の夫は立原久綱〈1531-1613年〉である。
後に
これら二つの説は一見矛盾しているようであるが、そうではない(詳細は第15章)。
輝元と尼子勝久の間で起こった [文献表30番]。 |
※6 娘(名前不明、生年不明-1587)と彼女の夫・大石義胤
元亀 元年〈1570〉、當國日和 城没落の後、城主日和冠者 隆廣末孫、福屋太郎隆兼公室と娘同没落して原村に居住、故に以女義胤の妻となす。 天正十五年〈1587〉丁亥三月廿一日逝去 (私がルビと西暦を付け加え。) [文献表12番1078頁]。
おそらく1562年の隆兼没落直後に室と娘は原村に居住したのであろう。石見の原とは現在の島根県益田市にある。美濃郡に位置し、「波田川上流域の東部
隆兼が没落した
この章は隆兼の家族(系図H)について説明した。系図A(第5章)から系図H(この第13章)までの系図は一本の家系として繋がっている。第18章は隆兼の三男について触れる。
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