第3章
福屋一族
の
家紋
家紋のはじまり
平治の乱〈1159〉では戦闘は小規模だった。この為、源氏の白旗と平氏の赤旗のみで敵味方の識別はついた。しかしながら、源平合戦〈1180〜85〉では大勢の武士が参加し戦闘は大規模になった為、敵味方の区別がつかなくなった。この識別の必要性から家紋が使われ始めた [文献表85番8頁]。江戸時代までの原形は約350種であったが、それらから発生し、家紋は現在2万種以上存在する [文献表87番]。
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この章は、福屋一族が使用してきた家紋の一部を紹介します。
鎌倉・室町時代
『見聞諸家紋』によると、本明城主・福屋氏は一に久を使用した [文献表1番・2番13頁・12番5174頁]。 "一"は数の元であり、物事の根本・初源の意味があった。そして、"かつ"と読む為、敵に勝つ意が込められた。さらに、"一"は戦場などで簡単に描けるので家紋として武士に選ばれた [文献表17番]。"久"の字は建久〈1190-1198〉の"久"に由来している (詳細は第9章を参照) [文献表9番]。
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一に久 |
『見聞諸家紋』
文政2年〈1819〉に『群書類従』(塙保己一撰)530巻が刊行された。
この文献は神祇・系譜・公事・和歌・日記・飲食・合戦など25部門を
扱っていて『見聞諸家紋』も収載している。『見聞諸家紋』は
室町幕府八代将軍・足利義政政権時期〈1443-1473〉の守護大名や
国人などの紋章255個を収録している [文献表59番40頁・69番359頁]。
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江戸時代
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阿波において、福屋太郎右衛門隆兼と福屋竹顕の家系は陰陽重ね割り菱を使い、福屋三太兵衛兼元の家系は割り菱を家紋とした [文献表15番・50番・51番・52番] (これら家系の詳細は第14章・第16章・第17章を参照して下さい)。
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陰陽重ね割り菱 |
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割り菱 |
近代
2004年の家紋調査によると、福屋家は次の家紋を使っていた:丸に違い鷹の羽(滋賀県)、山の字(大阪府)、丸に唐花(佐賀・熊本両県) [文献表16番73頁・202頁・680頁・791頁] 。
北海道在住の福屋家は二集団ある。この一集団 (この家系の詳細は第22章を参照) は丸に並び矢を使っている。 弓矢は武勇の象徴である [文献表85番]。
この章で私が使用した家紋は『自由に使える家紋大図鑑』 [文献表4番] から複写しました。
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初版公開:2009年6月9日
http://fukuya.ddo.jp/fukuya-clan/chapters/cha3.html